10/19(土) 午後7:30-午後8:15
私たちの暮らしを劇的に変えた乗り物がある。電動アシスト自転車である。ペダルを漕ぐとモーターが作動。漕ぐ力を補ってくれるため、坂道もスイスイ進むことができる。子育て世代やお年寄りの強い味方として幅広く支持され、一般の自転車の販売台数を上回るまで浸透。「日常に革命を起こした」と言われる。だがこの世界初の乗り物が誕生するまでには様々な困難があった。「99%無理」という逆風に立ち向かった開発者たちの物語。
目次
テーマ
電動アシスト自転車は、ヤマハの挑戦と努力により成功を収め、現在では年間80万台が販売されるまでに成長した。
要点
- 電動アシスト自転車は、ペダルを漕ぐとモーターが後押しする仕組みで、急な坂道も楽に進むことができる。
- 1980年代初め、オートバイ市場でホンダとヤマハが熾烈な競争を繰り広げた。
- ヤマハは新たな事業を生み出すために事業開発室を設立し、電動アシスト自転車のアイデアを提案。
- 試作車の開発と課題としてモーターのアシスト力の調整が浮上。
- 小山裕之が新たなリーダーとして着任し、試作車のアナログ制御をデジタル制御に変更。
- 道路交通法により、自転車は人の力で運転するものと定義され、プロジェクトには逆風が吹き始めた。
- 1991年6月28日に警察庁の施設で行われた合同試乗会は成功。
- 1992年1月、女性社員からのフィードバックにより設計の見直しが行われた。
- 藤田は特許を独占せず、さまざまな企業が参入することで価格が下がり、必要とする人に届くようにすることを決断。
- 1993年のテスト販売で1000台の予定が3000台売れ、翌年の全国販売でも3万台が完売し、大ヒットとなった。
ハイライト
"世のため、人のため、どうか力を貸してください。"
"この自転車を買ってから、毎日、おじいさんに会えるようになりました。"
"待ちます。諦めるか。諦めないかです"
"我が人生の宝物というかですね、そういうふうに思うことができる。"
"希望が持てるようになったみたいなこと言われてね。ああ、これは良いものを作ってやろうと思って。"
章とトピック
- 電動アシスト自転車の誕生:電動アシスト自転車は、ペダルを漕ぐとモーターが後押しする仕組みで、急な坂道も楽に進むことができる。お年寄りや子育て世代に支持され、年間80万台が販売されている。
- ペダルを漕ぐとセンサーが感知し、バッテリーから電力が供給される。
- モーターが回転し、漕ぐ人の力をアシストする。
- 一般の自転車を上回る年間80万台が販売されている。
- HY戦争とヤマハの挑戦:1980年代初め、オートバイ市場でホンダとヤマハが熾烈な競争を繰り広げた。ヤマハは一時的に成功したが、過剰生産で赤字に転落し、HY戦争は敗北に終わった。
- ホンダが市場を独走していた。
- ヤマハはスカートでも乗れるスクーターを発売し、大ヒットした。
- 過剰生産で在庫を抱え、350億円の赤字に転落。
- 事業開発室の設立と電動アシスト自転車のアイデア:ヤマハは新たな事業を生み出すために事業開発室を設立し、長谷川武彦が本部長に就任。菅野信之が電動アシスト自転車のアイデアを提案したが、藤田武男は既存のホンダの製品を知っていたため、慎重な姿勢を見せた。
- 長谷川武彦が本部長に就任。
- 菅野信之が電動アシスト自転車のアイデアを提案。
- 藤田武男は既存のホンダの製品を知っていた。
- 試作車の開発と課題:菅野信之が試作車を開発し、モーターが漕ぐ人をアシストする仕組みを実現。しかし、発案者の菅野がプロジェクトから離脱し、次なる課題としてモーターのアシスト力の調整が浮上した。
- 菅野信之が試作車を開発。
- モーターが漕ぐ人をアシストする仕組みを実現。
- 菅野がプロジェクトから離脱。
- モーターのアシスト力の調整が課題となった。
- 新たなリーダーとデジタル制御の導入:小山裕之が新たなリーダーとして着任し、試作車のアナログ制御をデジタル制御に変更する課題に取り組んだ。デジタル制御のガクガク感をなくすために、様々な条件下でデータを集めた。
- 小山裕之が新たなリーダーとして着任。
- 試作車のアナログ制御をデジタル制御に変更。
- デジタル制御のガクガク感をなくすためにデータを集めた。
- 道路交通法とプロジェクトの逆風:道路交通法により、自転車は人の力で運転するものと定義されており、モーターがつくと原動機付き自転車とみなされるため、免許が必要となる。このため、プロジェクトには逆風が吹き始めた。
- 道路交通法により、自転車は人の力で運転するものと定義されている。
- モーターがつくと原動機付き自転車とみなされる。
- 免許が必要となるため、プロジェクトには逆風が吹き始めた。
- モーターの回転を抑える技術:モーターの回転を抑えることで、感動の乗り心地を実現することが目指された。
- 自転車があれば行きたいところに行けるようになる人がいるという思い。
- ライバルへの意識が薄れ、感動を分かち合いたいという気持ちが強くなった。
- 試乗会の成功:1991年6月28日に警察庁の施設で行われた合同試乗会は成功し、参加者の表情が変わり始めた。
- 運輸省と警察庁から17人の担当者が参加。
- 自転車は滑らかに走り、モーターは人の力を補うだけで暴走しない。
- 急勾配の坂を登る際に担当者の表情が喜びに変わった。
- 女性社員のフィードバック:1992年1月、女性社員からのフィードバックにより、フレームの位置が高くて乗りづらいという問題が指摘され、設計の見直しが行われた。
- バッテリーを内蔵したフレームが巨大化し、またぎづらくなっていた。
- 藤田は設計担当の秋田に設計の見直しを依頼。
- バッテリーをサドルの下に置くことで車体設計を1から見直すことになった。
- 特許の独占をしない決断:藤田は特許を独占せず、さまざまな企業が参入することで価格が下がり、必要とする人に届くようにすることを決断した。
- 会社としての利益を優先しないことを意味した。
- 長谷川は自転車業界最大手のブリジストンに協力を依頼。
- 1993年にヤマハはブリジストンの協力を得て電動アシスト自転車を生産、テスト販売した。
- 電動アシスト自転車の成功:1993年のテスト販売で1000台の予定が3000台売れ、翌年の全国販売でも3万台が完売し、大ヒットとなった。
- 坂を登るのが大変な場所での便利さが評価された。
- 購入者からの手紙が藤田たちを喜ばせた。
- 特許を独占せず、広く普及させることが成功の鍵となった。
- 待ちます。諦めるか。諦めないかです:誰でも鮮密に遭遇するんですよ 千人三つ。
- 柔術の努力とチームワーク:柔術の成功は、全員の努力とチームワークによるものであり、一人でも欠けたら達成できなかった。
- 全員の力で目標に到達した。
- 良い人たちに囲まれて、皆の血を一つにして努力した。
- 電動アシスト自転車の歴史:電動アシスト自転車は発売から31年で通常の自転車を上回る台数が販売されるまでになったが、最初の10年間は赤字が続いた。
- 発売から31年。
- 最初の10年間は赤字が続いた。
- 電動アシスト車椅子の開発:電動アシスト車椅子は、腕の力が弱くてもわずかな力で自由に動くことができる製品であり、非常に価値があると評価されている。
- 電動アシスト自転車の発案者、菅野信之さんが開発。
- 24年間この車椅子に捧げた。
- 腕の力が弱くてもわずかな力で自由に動くことができる。
- 小山裕之さんの努力:小山裕之さんは母親のために電動アシスト自転車を開発し、それを人生の勲章として大切にしている。
- 母親のために電動アシスト自転車を開発。
- それを人生の勲章として大切にしている。
- ヤマハの特許戦略:ヤマハは特許を独占しなかったことで国内トップシェアを譲ることとなったが、その技術は世界30カ国に広がっている。
- 特許を独占しなかった。
- 国内トップシェアを譲ることとなった。
- 技術は世界30カ国に広がっている。
まとめ
全てをご覧になりたい方は、NHKオンデマンドをご視聴ください。
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